2008年12月13日土曜日

インド 所感

・ 旅先としてのインド

(少なくとも私の周りにいた)一般人の多くは親切で、下心無く旅を助けてくれたし、英語はかなり通じるし、交通も発達していて利用しやすい。物価はアジアの中でも安い方なので、少々ぼったぐられても「それでも安い」と気にしなければ、発展途上国としては楽に旅のできる場所に分類できるかもしれない。ただ、用心しなければいけないことが多いのは確かである。お金のために人に対して何でもできる人、というのをあまりにたくさんインドで見ることになった。

2002年に行った、インドネシアのジャワ島も治安は悪く、実際にひどいめにあった
ただ、ここであったのはぼったぐりやスリといった、比較的単純でわかりやすい罪だった。しかし、ここインドでは違う。人の心の隙間を無理やり作り出すような、いい人を装った手の込んだ悪さがあまりにも多い。

チャイを飲んだり何かを待っていたりするとよく、インド人に「どこからきた」のと聞かれる。「日本だよ」と言うと「日本、いい国だね」と帰ってくる。なにがいいのかは知らないが、実際、対日感情は悪くないと聴いている。そして、それに続いて「インドはどうだ」と聴かれる。旅の前半は「いい国だね」と普通に返していたが、(クスリを飲まされる前でも)後半では失礼を承知して「うんざりしている」と言い切れるほどになっていた。「旅行者を騙して金を巻き上げようとする人が多すぎるからだ」と一応フォローははいれていたが。しかし、そこで同意を示す人だって、向こうから話かけてくるような人はまったく信用できないのだ。これは悲しい。

旅行中に出会った人をどこまで信用できるか ということは大きな問題である。例えば現地の人と話がはずんだりして家に招かれたとき、あるいは一緒に出かけようと言われたとき。それを拒否することで旅の貴重な経験をミスすることになる。しかし、拒否しないことでとるリスクは、殺されることにまで及ぶ。特にインドでは多くの行方不明者が出ている。外国からの旅人に見える人も罠を持っている。

今回は最後に取ったリスクが当たってしまった。もう今後の旅で取れるはリスクが増えた。少なくともインドを次に旅するとしても、現地の人に期待できることは非常に少ない。はっきり言ってこれでは独り旅は心から楽しめないし、ツアーでもない限り、責任持って人に勧めることもできない。

インド政府は、観光地の入場料として外国人から、現地人の20倍の入場料を取るなら、それなりの使い方をして欲しい。

ヴァラナシで麻薬を売っている人や、火葬場で詐欺/恐喝をしている人だって、その気になれば警察は簡単に見つけ出すことができるはずなのだ。自分さえ良ければ他人なんてどうなっても知ったこっちゃない・旅行者の人を信じる心を傷つける人たちの存在や、一部の心ない人のために自国民すべてに不名誉な印象を持たれてしまったりすることを許し続けることが、インドの国のあり方として好きになることができなかった。

あと、インドの個人旅行には十分な時間が必要だと感じた。交通機関はひどい単位で遅れるし、途中で健康を損なってストップする確率も高い。移動を続けていると、移動や宿に関連したトラブルを避けることばかりに気を遣うことになって、なかなか落ち着いた気分になることができない。なので、十二分な時間を持っての旅が好ましい。
私の場合、帰国が3日遅れたので、仕事をしている時でなくてまだよかったと思う。
また、帰国後に感染症が発覚すれば、行動範囲すべてが消毒の対象になる。特に客周りをする仕事を持っている時は、インド旅行するのはあまりお勧めできない。

・ インド 生と死 を考えさせる国

インドを旅していると、生から死への移行というものをビジュアルとして何度も見せ付けられる。

街を歩いていると、道端で中国とは違うしなやかさでヤギが解体されているのを見たりする。足だけが生きたままの姿の何匹ものヤギが袋に詰められ、自転車に乗せられていく。
その近くでは牛が淡々と肉片にされている。その横で、生きたヤギが何か食べている。道の向かいには野良牛が歩いている。

中国でも豚が丸ごとぶら下がっていたりするが、それは市場で、食肉が処理されている という印象が強い。しかし、ここでは屠殺を予感させる生々しさを残して、道端で動物が処理されていたりする。道端で生きた動物と共に見ることで、その連続性を感じざるを得ない。

あるいは、道路で野犬が捕まえたネズミを食べている。
ある野犬は今にも死にそうな風体で横たわっている。
道端や駅には死んでいるか生きているか分からない人が寝ている。
布をかぶせられた人が担架で運ばれている。
ヴァラナシに行けば人間や動物の死体が河を流れている。火葬の現場で、人の形をしたものが炭になってゆく様を見る。

インドを歩き回ると、少なからずそういう現場を見ることになる。

私は今は香港で葬式場の隣に住んでいるし、過去にはお墓に囲まれた東京のお寺に3年近くも住んでいた。同じ屋根の下で葬式があるのでホトケ様を見ることは珍しくなかったし、それを前にお経をあげたこともある。でも、そういうところからは生から死への連続性は感じることはできない。だから、自分のものとして感じることもあまりなかった。

けれど、インドでは生と死が隣り合った姿で何度も目に飛び込んでくる。多くの旅人は、そこから何かを感じると思う。

例えば、死を遠い先のものと考えて人生設計を立て、日々の会社員生活していること、それは日本では普通の意識の持ち方であっても、生き物としてはなんと特別なあり方なんだろう、というようなことを悟るかもしれない。
インドに来ると人生観が変わる、という人達はこの悟りに至ったのかもしれない。

ある人は、インドに多いベジタリアンの中には、ノンベジの人と同席することすら拒否する理由が直感的に理解できるかもしれない。

私は意識が飛んだ経験もあいまって、生と死の境目に細い線も感じることになった。さっきまで生物だったものが、物質に還っていく。それは、ヒンドゥーの神に捧げられる生贄の話であり、自分自身の話でもあるということを知る。

こういうことを感じることができるのは、インドならではだと思う。
インドは旅先として、特別な場所と言われているが、実際に特別な場所であった。

・ インドに美人は少ない

インド人は彫りが深く、美人が多いイメージを持っている人もいると思うし、自分も持っていた。
しかし、実際に行ってみると、そんなことはまったくなかった。
都市部でも垢抜けている人を見ることはとても珍しかった。化粧品を売っているようなお店もみかけないず、自分の外見には興味のある人は多くないようだった。外国にて、その地やテレビで見るインド人が取り分け美しい/美しく保とうとしている人である確率が高いようである。

・ インド旅行 再咀嚼の必要性

インドに行ったら公開するしないは別として、帰国後には旅行記を書くのは人生の糧になると感じた。

インドにいる時には、あまりの日本の街との違いにただ圧倒されてしまって「すごかった」というような具体性のない言葉に集約させられて、それで終わってしまいそうになってしまいそうだからだ。いかんせん、帰国後の日常との共通点がなさすぎる。だから、出会ったものを文章化する作業を通して、改めて咀嚼、吸収する時間が、その体験を自分のものとするのに有用だと思った。

インド旅行はネタになることが多すぎて、書き始めるときりがないのが難点であるが。

・ 健康について
胃腸に弱い私が、インドにて2週間通じて下痢はまったくしなかった。それほど料理が辛くないのと、消毒用アルコールで食事前に手をきれいにするように心がけたからかもしれない。
原因不明の長引く咳も収まった。また、お茶文化に慣れてコーヒーがないと一日が始まらない感じもなくなった。一旦風邪は引いたが、それも睡眠薬で身体を休めまくったため直った。
早寝早起きして野菜をたくさん食べ、動き回る生活をしたためか。

0 件のコメント: